大阪の歴史と現況

二次医療圏マップ

大阪府は、江戸、明治、大正、昭和の初期まで、日本の経済活動の中心であり「天下の台所」といわれてきました。そもそもの町の発展は豊臣秀吉の城下町(大坂)に始まり、その後は町人の都として発展してきました。学問、文化の面でも特色を示しましたが、それは官の東京に比して町人の気風や文化を育成してきたという伝統です。

江戸時代の後期には、漢学における懐徳堂、蘭学・医学における適塾ができ、当時の日本の学問の指導的立場にありました。いずれも、大坂の風土とむすびついて成立した優れた学塾でした。適塾は、緒方洪庵により1838年(天保9年)に始められました。当時の建物は現在も保存されてまして、東区北浜3丁目(当時の地名では過書町)に訪れることができます。 適塾では、全国から集まった若者が寝る間も惜しんで勉学したといわれ、蘭学のみでなく医学の一大拠点となりました。 洪庵門下からは、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専哉らが育ち、それぞれ日本の文明開化に貢献したことはよく知られています。適塾に育った医学の伝統は、洪庵の子である緒方郁蔵、惟準に受け継がれ、勅命で設置が決まった大阪府病院(明治2年)の設立に貢献しました。

現在の大阪府の人口は、平成27年の統計では約884万で全国で3番目です。昭和30年代から毎年20万人ずつ人口の増加がみられていましたが、昭和40年代に入ってからは増加率が急速に低下してきています。わが国の総人口は、平成19年(2007年)にピークに達した後、減少に転じると予想されていますが、大阪府においても、今後は下降を続け2020年には東京都、神奈川県、埼玉県に次いで全国4番目になると想定されています。

大阪府の医療圏は、2次医療圏として図に示しますように大阪市(260万)、北部(175万)、東部(209万)、南部(235万)の4地区に分けられます。開業医449名の医療圏ごとの分布は、大阪市178名、北部90名、東部83名、南部98名です。

部会概要

大日本耳鼻咽喉科会関西地方会が、明治42年に京都府の耳鼻咽喉科医が中心となって設立され、大阪府からもこの活動に加わっていました。昭和5年になって大日本耳鼻咽喉科会大阪地方会が、大阪市ならびに附近に在住の大日本耳鼻咽喉科会会員を対象として設立されました。初代会長として大阪医科大学(現大阪大学)を退官されていた加藤亨先生が就任され、これが大阪府地方部会の前身となっています。2代目の会長は山川強四郎先生(大阪帝国大学教授)であり、3代目の会長には長谷川高敏先生(大阪大学教授)が就任されました。
この間、昭和38年には各都道府県に支部組織を設置する件が日耳鼻総会において承認され、日耳鼻学会大阪支部と名称を改めました。その後、昭和50年に日耳鼻学会にて各都道府県に地方部会を設ける議案が可決され、現在の形の大阪府地方部会が発足しました。発足当時の正会員の数は407名でありましたが、現在は倍以上の会員数の増加がみられます。
初代の会長には内藤儁先生(大阪大学教授)が就任され、2代目の会長は松永亨先生であり、平成6年からは久保武先生が、平成20年から竹中洋先生が、平成27年度から猪原秀典先生が会長職を務めています。

大阪府地方部会の沿革
1909年
(明治42年)
京都府の耳鼻咽喉科医が中心となって大日本耳鼻咽喉科会関西地方会を設立。
1930年
(昭和5年)
大阪市ならびに附近に在住の大日本耳鼻咽喉科会会員を対象として、大日本耳鼻咽喉科会大阪地方会を設立。
初代会長として加藤亨先生が就任。
1963年
(昭和38年)
各都道府県に支部組織を設置する件が日耳鼻総会において承認され、日耳鼻学会大阪支部と名称を改名。
1975年
(昭和50年)
日耳鼻学会にて各都道府県に地方部会を設ける議案が可決され、現在の形の大阪府地方部会が発足。
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